頑張れ野分シリーズ

act.12 草間野分研修医第1日目


電車の規則正しい揺れに、意識が引きずられる。重くなって来る瞼を引き上げようとする努力は手放すことにした。
ラッシュの時間は過ぎたとはいえ、空席はなく立っている人も多数いる車両内に草間野分はいた。

無事定められた課程を終え、今日は新たに踏み出す初日、つまり研修医第1日目である。基本的におおらかに構えている野分であるが、さすがに不安・緊張・期待…気持ちが昂って昨晩の眠りは浅かったのが影響しているのだろう。
そういう時こそ恋人である弘樹と一緒に眠りたかったのだが、あいにく彼は新学期のカリキュラムの準備で自室にこもってしまった。恋人の仕事の邪魔はしたくない。夕食でささやかなお祝いをしてもらったし、今朝は弘樹の方が先に家を出たが頑張ってこいと声をかけてもらった。それだけで十分幸せだ。

そうして揺れに身を任せ、ウツラウツラと意識が沈んだ頃。
野分の真正面に立っていた女性の抱いている赤ちゃんが泣き出した。それはまさに火がついたように、というのに相応しく激しい泣きっぷりで、微睡んでいたため自分の正面に赤ちゃん連れが乗ってきたことに気づいていなかった野分はビクリとして顔を上げた。
新米ママだろうか、その若い母親は、スリングを使っているとはいえカバンも提げていて手一杯という状況。しかも平日の午前ということで会社員や学生が多く、冷たい視線が注がれているのがわかり余計に慌てているようだった。
野分は立ち上がると席を譲ろうとした。
「お荷物大変ですね、どうぞ掛けて下さい」
しかし母親は、イエ、だとか、デモ、と恐縮する。ちらりと周囲に視線を巡らすと野分の隣に座っていた会社員が迷惑そうな視線を投げていた。野分と目が合うと気まずそうに逸らしはしたが。
ああ、と納得した野分は
「ではドアのところはどうですか。外が見えた方が赤ちゃんもいいかも知れません。どちらで降りますか?」
乗客の乗り降りがない方の扉へとすすめる。
よしよしと揺すられて、それでもまだ泣き止まない赤ちゃんに母親の方が泣きそうだった。
(そうだ・・・!)
野分はカバンの中を探ると、マンションの鍵を取り出す。弘樹とお揃いのパンダのキーホルダーがついているのだ。(弘樹の物を見て野分が後から探して勝手にお揃いにしたのだが)のんきな顔をしたそのパンダはチリチリと鳴る鈴がつているので赤ちゃんの前で振ってみせる。
「コンニチハー。元気だね。お名前はなんて言うのかな?」
にこにこと微笑みかける野分に、ふにゃりと一瞬泣き止んだ。
「ミルクもオムツも済んでるのにどうしたのかな…電車もこれが初めてじゃなくて何度も乗ってるんですけど」
子供が泣きやんだことで周囲の視線も和らぎ、母親がほっと肩の力を抜いたのが分かる。
野分が目の前で揺らすパンダを目で追って、しばらくは泣き止んでいた赤ちゃんは思い出したように再びふにゃふにゃとぐずり出してしまった。
慌てて母親がよしよし、と優しく体を揺らす。
そこに、まもなく野分の降りる駅に到着する旨のアナウンスが流れた。
「差し出がましいようですが」
野分たちの立つ、反対側のドアサイドにいた男性に声をかけられる。若く、スーツでもないその風貌は大学生のように思えた。
「その子、多分暑いんだと思いますよ」
その男性が、失礼、と手を伸ばして赤ちゃんの襟元を緩めると、再び泣き出しそうにしていたのがピタと止まる。
確かに春先とはいえ今日はとてもいい陽気ではあった。車内は空調に加えて乗客も多くいたため、その熱気もある。
現に周りの大人たちは薄手のコートを脱いでいた。
ただ母親としては外に連れて行くとなると厚着させてしまうものなのだろう。
「汗が冷えるほうが大事になりますから。気をつけて、お母さん」
じゃ、とそれだけ言って、すいっと降りてしまった。
一瞬ぽかんとその背を見送ってしまった野分だったが、自分も下車する駅である。ありがとうと礼を言う母親ににこりと笑顔を送って慌ただしく降りたのだった。


ネクタイを直し、軽く咳払いをする。
「失礼いたします!本日より…」
小児科医局の扉を開け、元気よく頭を下げて挨拶をしようとした野分だったが、それは最後まで叶わなかった。
「ちょ、お前ソコどけ!」
野分を押しのけるようにして中にいた医師が飛び出して行った。慌ただしい様子を見れば急患であろうことが容易に知れる。
「幼稚園の子供の列に車が突っ込んだらしい。重傷者は5名!行くぞ!」
数名の医師とナースも続く。
「お前今日からの研修医だな?カバンそこに放っとけ、サッサと白衣着ろ、行くぞ!」
「は、はい・・・!」
言われるままドサリとカバンを椅子に置き、その場で靴を履き替える。スーツのジャケットも同じように椅子に投げて真新しい白衣に袖を通すと、もらったばかりのIDカードを首から提げてあわてて後を追った。
研修医初日は発令式とオリエンテーション。その後1週間はオリエンテーションと言う名の講義が続く…と聞いていた。野分本人ももちろんそのつもりだった。
それを自己紹介も済まぬまま、いきなり来いと言われて正直戸惑っている。
戸惑うというか、心臓がバクバクと音を立てて口から出そうだった。一気に緊張のピークである。
国家試験に合格して一通り勉強したとはいえ、今の自分はネコの子より役に立たない。現場を見ろということかもしれなくて、それなら座学などよりうんと勉強になるはずだ。
震える手をぎゅ、と強く握り処置室の扉を開けた。


「改めまして、草間野分です。本日付けで着任いたしました。よろしくお願いいたします」
予想通りではあったが、本当に全く役に立たないまま嵐の様に処置は終わり、改めて自己紹介の場を得た。搬入された子供たちは無事病棟へと移されたようだ。
「うぃーす。最後の子も安定しましたヨ、っと」
「おう、ご苦労さん。休みの者以外はこれがこの病院の小児科スタッフ全員ね。で、キミのオーベンは今来たコイツ」
最後に入室してきた医師と目が合う。
「あ・・・!」
思わず声を上げてしまった。
「は?」
朝の電車でいた男性だった。先ほどの処置室では何人もが慌ただしく立ち働いていたし、野分も彼らの動きを追うのに必死で全く気づかなかった。風貌で学生だと思っていたのがまさか医師だったとは。それも自分の先輩で、ましてや教えを請うことになるとは、縁というのはあるのだなぁと嬉しくなって改めて自己紹介をする。
「本日付けで着任いたしました、草間野分です。よろしくお願いいたします」
「おう、津森だ。こき使うから覚悟しろよ」
にや、と笑って手を差し出してくれたので、再びよろしくお願いしますと言いながら握手をした。
「あのっ、今朝電車で赤ちゃんが泣いた時に…」
「ああ、あの時の」
どうやら津森も覚えていたようだった。

「なんだ、てっきり保育士かなんかと思ってたけど。医者か」

そう言って手を離すと、ついて来いと言って背を向けた。
すたすたと先を歩く背中を追う。
先ほどの「保育士と思った」は褒められているのか、それとも…津森の真意は分からないまま、野分の研修初日がスタートしたのだった。


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